江戸川この十年


03年11月29日に行なわれる「江戸川−利根川シンポジウム」に向けて書かれたものです。



☆毎年、坂川に来るアメリカヒドリ




江戸川の自然環境を考える会

田中利勝




江戸川のふところへ

 日本橋で写真デザインをやっていたが、もっとべったりと江戸川の近くにいたいとの思いで、1995年の初め松戸市中矢切へ移った。これから毎日、時間を見つけすぐに川へ駆けつけられるのだ。
 ある夜、旧建設省江戸川工事事務所の課長が訪ねてきて、数時間話し合う機会をもった。市民との信頼関係のあるネットワーク作りに関心があるようで、前向きのやる気を行政人の中に久しぶりに見たように思った。

 その3年前に、「江戸川の魚今昔」を制作し、翌年(1994年)江戸川の自然環境を考える会が発足。江戸川シンポジウムも連続して行われていたそんな頃である。江戸川で唯一の無堤区間(矢切―里見)の築堤計画を知ったのも、その時だったような気がする。着工6年前という早い情報であるが、そこに重大な問題が存在した。  今では未使用区間となっているものの、旧坂川河口部500mが自然豊かな状態で残されており、ここが江戸川側で堤防によって閉ざされてしまうことは一大事なのだ。
 ここで、簡単に坂川の歴史を見てみよう。

坂川の歴史と河口部の保全

 松戸と流山の間に広がるかつての大水田地帯は、江戸時代から新田開発が行われたところであるが、水はけが悪くたびたび洪水に見舞われていた。流山村、木村、馬橋村、小金村、古ヶ崎村、鰭ヶ崎村など上郷12ヶ村の名主が集まり、いつも溢れる逆川を江戸川下流へ掘り継いで排出できないものかと話し合ったのは、時・安永9年(1781)のことであった。その結果、鰭ヶ崎の渡辺庄左衛門を中心として、幕府への請願が行われた。しかし、許可が出たのはなんと32年後、文化10年(1813)のことで、庄左衛門は二代目となっていた。

 12ヶ村の村人総出で松戸宿の赤圦まで川幅11m、長さ3740m掘り下げる工事は一年で完成は見たものの、それでも洪水は治まらなかった。更なる下流部、栗山村地先(現国府台)の江戸川まで掘り継ぎを幕府に願い出、洪水がやって来ると大反対する小山、三矢切、栗山村など下郷7ヶ村と対立、幕府への使者や予定地の下見の者まで襲われる殺傷事件などが巻き起こる騒ぎとなった。

 こうした事件を経て、天保7年(1836)市川までの掘り継ぎの大工事は完了した。赤圦から栗山地先まで幅11m長さ4500m、工期8ヶ月、すべて人力、住民による驚くべき早さの工事であった。上郷12ヶ村の悲願は56年の後、こうして成るが、リーダーであった渡辺庄左衛門はこの時、三代目であったという。悲願の確かな結実である「坂のように速やかに流れる川」を願って、「坂川」と名づけられた。当時の面影を残し、奇跡的に現代まで残された500mの水路は、血と汗と人々の涙を染み込ませた歴史に残すべき遺産といえる水路なのだ。

堤防を曲げる保全提案

早く情報を得る、これによって手を打てる場合もある。重大な問題でない限り、変更の時間的余裕が得られる。魚や多くの生物たちのワンドとしての機能を半分でもそのまま残せる名案はないのだろうか。堤内に取り込まれぬ限り江戸川で計画されているスーパー堤防計画で将来、この水路全体が消えてしまう可能性が現実味を含んで感じられていた。1996年早春、具体的イメージを持って現地を歩き、小瀧康男氏の専門的アドバイスを受けながら、提案図の作成に取り掛かる。思い切って計画堤防をS字に曲げ、水路半分を新堤内に取り込み、そのまま保全するという結論に至った。

 堤防を曲げて築堤するという提案を図面添付で行った。これはこれで多少の問題も生ずるのだが、さあ、江戸川工事事務所の対応ぶりが見ものとなった。この春、担当だった課長が他所に転出した。次の課長も陽気な性格でしっかりと「曲げる堤防」案を引き継いでいた。市民の提案をしっかり受けて、検討するという対応には当然ながら好感が持てた。内部調整にも苦労されたようであったが、この年の秋(1996)新しく届けられた図面には提案どおり500mの中ほどで堤防をS字に曲げ、200m以上の水路を江戸川直結のワンドとして保全するというものであった。この計画に関しては、2001年春、中ほどで水路は閉め切られ、2002年にはおおよその堤防が築かれて、現在最後の仕上げを残すのみとなっている。

市民意見をもとに川をつくる

 左岸松戸側は堤防下まで江戸川が迫り、高水敷の無い状態であった。広い対岸を削り、左岸に河川敷がつくられ、水辺の近自然型工法が取り入れられたのは画期的であった。ワンドが小さいとか、浅いとか、問題はあるものの、そダイの完成を見たのは1995年である。流下ではあり得ない柳の木も活着し、水辺の風景は日増しに緑を広げていた。これより2年、新たな河川敷内に坂川の汚水を浄化し水を流す川づくりについて「地域と考える川づくり懇談会」の住民委員の提言を受ける形で進められてゆく。松戸市漁業協同組合長・中臺弘志氏の尽力もあり、初めは少数派だった自然型派が多数となって、人の立ち入らぬスペースを確保した自然豊かな川づくりを目指すことになった。流水を保全する目的で(おいしい水道水の確保)計画された水路は1999年通水され、「ふれあい松戸川」と名づけられ、市民に親しまれる存在となって現在に至った。

 江戸川と並ぶあたかもこの親子川は、都市のど真ん中にあって他流域の人々にも誇れる川の風景となっている。ここには行政マンと市民との意思の疎通があり、話し合いの中で実行に移せる余裕があった。

行徳可動堰新設計画

 江戸川下流には本川に設けられた江戸川水門の他に洪水時のみ開いて海へ放流する目的だけの行徳可動堰がある。昭和32年に造られた現堰の堰下は海水(江戸川放水路)、堰上は淡水で分かれていて、さらに県道を背負うことから老朽化が激しく、新しく造り変えたいと江戸川工事事務所から説明があり、1999年11月に行徳可動堰懇談会が立ち上げられた。しかし、昭和55年策定の「洪水量7000m/Sに対応する目的」で作られた新堰案は現行90mの約3倍の巨大計画となっていた。これにはさすがに反発の声も多く、その後進展が無い膠着状態が続いた後、「新河川法をもとに、利根川治水計画が見直中でもあり、その結果を待ちたい」と突然の休止宣言が発表され、懇談会も中断されている。

ヒヌマイトトンボを守ること、水辺護岸を壊すこと

 この堰上に3cmに満たない小さなヒヌマイトトンボというトンボのすむヨシ原湿地があった。千葉県レッドデータA・最重要保護生物でもある極小のトンボの生息ヨシ原が堰の新設に伴い失われるため、これを守りたいとの意向で、専門委員に何名かのスペシャリストを推薦した。可動堰懇と同時進行する形で、上流部につくられた新しいヨシ原の創出、ミティゲーションと称するあらゆる手立てを用いて幼虫の放流と再生が試みられた。トンボ生息調査やトンボ図鑑を発行してそれなりの専門家としてトンボに深い関心はあるが、魚や他の多くの生物、つまりは生態系の保全が第一義と考えている私には、江戸川工事事務所の生物を守るという姿勢は大変評価するものの、単独種の保全という不自然さにはやりすぎと映ったことも事実である。

  異常なまでのヒヌマイトトンボ保護再生の努力とは対極的な工事が進められて驚かされたのは、2002年10月のことであった。堤防の傾斜をゆるくして(緩斜面化)その先の河川敷を30m確保するというこの工事は堤防強化が主目的の工事であるが、水際の垂直護岸、その先にテトラポットという目も当てられない計画であった。今、シンポジウムの実行委員でもある新井正樹氏はこの堤外に住まれ、親しんでいた水辺が失われる危機感から、計画の変更を求めて関係各所に奔走した。引き出される形で、ある時は朝5時に現場に立ち、松戸の斜面林上から太陽が昇るのを眺めながら、ヒヌマイトトンボのオーバーな保全努力と江戸川の水際護岸工事の無謀さと、この大きなギャップは一体何なのだと愕然としたことを覚えている。こちら側の救いは河口出張所長の誠意ある対応ぶりだけで、工事はややカモフラージュされたものの基本設計は変わらず散々な結果であった。  その後も緩斜面化と河川敷30m確保の大工事は次々と続けられている。松戸―三郷間有料橋右岸の上下の工事では生態系豊かな樹木繁るワンドを一気につぶし、川を埋めて伸ばされた河川敷の先の水際は延々とカーブを描くコンクリート垂直護岸のとんでもないもの、とうてい目にしたくない破壊された水辺の風景が作られてしまった。「自然通信」誌による批判に対し、説明と称する工事課長の対応はあったものの、旧建設省も川の自然環境や生態系を守ることはどういうことか、全く理解しておらず、謝っておけば時間が風化してくれると思うがごとくであった。そんな甘いものではないのであるが、その課長はもう江戸川にはいない。江戸川工事事務所は2003年春に江戸川河川事務所と改称されている。

 新治水計画が見直されている中で、旧態然とした護岸工事がまかり通り、強行されるのはなぜなのだろう?河川局の中枢の指示なのか、江戸川を担当する責任者の判断の成せることなのだろうか?洪水を早く海へ流すという前に何百万人の水道水として頼っている命の川であることも忘れてほしくない。1994〜1995年ごろ、信頼関係を少しづつ構築していたことと比していま21世紀の行政側の対応ぶりはどこか人間性すら感じにくい距離の拡大を感じる。

 これらの思いが江戸川の枠を超え、利根川全体を含めた流域シンポジウム構想をイメージ化させた要因でもある。水やダム、環境の保全、治水と工事、いろいろな懸案を多くの流域の人たちと語り合ってみたい。そんな提案を行い、流域人の結集がいまやっと始まりつつある。

江戸川の自然環境を考える会十年

 流域一帯の水と環境を自分の足で歩き、眼で見て考える。そんな毎月のイベントはのべ125回、総参加者数3700人、その中で江戸川シンポジウムもメインゲスト、河川管理者を招いて松戸市河川清流課のご協力のもと、今年十回目を終えた。

 普段からの考えを十分話し合っておく、今できる小さな問題はどんどん解決しておくことが大切と、ゲスト、行政、参加者との意見交換が毎年、これでもかと行われてきた。

 「江戸川の未来は利根川と共に」

利根川を知らずして江戸川を語れない時代だと考えている。私たちの江戸川の水はすべて、利根川の各支川から生じた貴い水だからだ。そこには江戸時代の坂川のごとく、住む人の血と汗が染み込んでいるかもしれない。

今回、ダム、水、治水、河川環境の話題で、上流から海までひとつのシンポジウムとして企画され、そこに参加できた喜びと新たな決意をいっぱいに体感しているところである。

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