物好きな人にも迷惑な雑談4












 個人的な趣味の話などたわいのない話ばかり、いかなる時も
 何の役にもたたない雑談のあれこれ集。
ホントにおヒマな物好きな方だけおつき合いください。



 空を大きなキャンバスにして描かれる夕景を飽かず眺める。






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雑談1/03年5月以前

雑談2/03年5月以降〜03年10月

雑談3/03年10月以降〜04年6月

雑談3/04年2月以降〜











ドングリの赤ちゃんをつけたスダジイ
でも、本来なら殻斗にかたく覆われているはずなのに・・・??











はずかしいっ!


 なんだかんだと言っても四季もあって、海も山もある日本の風土は好きです。どれほど哲学的でも砂漠しかない国は、暮らすのは過酷だと思います。だから、日本に生まれ、育ち、今も暮らしていることに不満はない・・・・はずですが、時々非常に恥ずかしい・・・.、いたたまれない思いを味わって、日本も日本人であることもうんざりすることがあります。

 一連のイラクでの人質事件への対応、「自己責任」とか持ち出して世論もその尻馬に乗った時、ビラ配布した市民を逮捕、勾留し、しかもそれが大きく社会的に問題視されないこと、国連難民高騰弁務官が難民と認定したトルコ人を強制送還したり、さらに今回の外国籍管理職の登用拒否を合憲とした判決など、そのたびにがっかりし、猛烈に恥ずかしくなります。この21世紀に時代錯誤、国際感覚欠落、人権意識皆無というこの国の国民のひとりとして、恥ずかしくて言葉もないっていうことは、容認になるとしたら、「ちょっと、待て〜!!」です。

 とりあえず、今回の最高裁判決にはガッカリを通り越して、「マジ?」(マジって大嫌いな言葉なのですが、この際そんな言葉を投げ付けたくなるなぁ・・・)と言いたくなりました。もちろん、最高裁大法廷は高裁判決を覆す時にしか開廷しないとも聞いていたので、ある程度、時代に逆行する判決を予測しないでもなく、「またか?」とは思いましたが、司法の最高機関がいつまでもこんな感覚でいいのだろうか??いいわけないだろう・・・(そんな中で、この判決に反対違憲を述べた2人の裁判官の名前は数少ない良識派としてしっかり覚えておきたいと思います)。現代に外国人の採用を拒絶するそんな社会をこれからも続けたいなら、鎖国しろ・・・と思ってしまいます(鎖国して自給自足で満足していなさい。さんざん海外進出して安い労働力など思う存分使って、世界中から食べ物を集めておいて、あまりに身勝手???「世界の中心で差別かよ〜」と突っ込みたくなります)。こんな人権意識の欠如を国内外に大っぴらにしながら、北朝鮮にどうこう言えますか??似たり寄ったりと反省してほしいけれど、あの小泉首相にはわからないだろう・・・し、野党も信頼できないし・・・。この国の恥ずかしい状況を覆すのはこの国の住民だけなんだけれど・・・・なぁ。









気をつけよう!甘い言葉と暗い道

 新聞はあっという間に溜まってしまいます。一応、通信のために必要な記事を切り抜いておかなくてはいけないのに、ちょっとサボるとたちまち山のようになります。というわけで、とりあえず、年明け以降の新聞をチェック(実はまだ昨年末の一山あるのですが・・・)。

 と、驚くべき記事発見。政府が緊急事態の避難命令を速報するシステムを整備する方針を固めたと言うのですが・・・(読売 1/4 「TV・携帯起動『逃げろ』 ミサイル・津波自動警報」)。確かに地震、津波など緊急時にすみやかな避難を誘導することができれば被害をかなりすくなくできるだろうということで、テレビやテレビ付き携帯電話を緊急時に自動的に起動させて避難命令を速報するシステムを導入していくというもの。しかし、その地震よりも津波よりも前に、どうやら「北朝鮮から弾道ミサイルが発射された場合」という有事対応が主目的のようなのです。地震や津波は不可抗力で確かにいち早く警報がでればと思う。しかし、北朝鮮からのミサイル攻撃って、それは政治や外交の力でいかようにも回避できるものではないのか?そのための努力なしに、端から敵と見なして警報システムをって、それは間違っていると言いたい。なんか、今さらながらの空襲警報復活かい?と思ってしまうのは、年かな(って体験してませんが)。

 2005年も年明けからは比較的平穏に過ぎていますが、どの問題でも選択肢をすべて並べて討議するのではなく、あらかじめ限定された道筋しか提示せず、誘導するような手法が大手を振ってまかり通る事態に腹は立つし、政府のお先棒をかつぐマスコミには「それってど〜よ!」とダメだししたい気分。過った方向へ誘導した結果、その責任をきちんととらないことは過去のあの太平洋戦争のみならず、あまたの事例があるわけで、今また同じことを繰り返すのか。それを許すのか?結局、責任は国民がすべてかぶることになるわけで、「油断するな」、「すべてを疑え!!」と、ひたすら言い聞かせていますが(それでも、流れに逆らい切れないか・・・)。

 そうそう、なんと最近、容疑者が逮捕されたという「水戸徳川家の当主」と名のる詐欺事件を含め、有名人やその関係者をかたる詐欺事件は後を絶たないそうです。もともと伝統や格式のある血筋や権威に弱い日本人の気質が事件を繰り返させるとも言われているそうです(東京新聞 1/7)が、社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」のプロデューサー杉浦正士氏いわく、「最大のペテン師は小泉純一郎首相」(昨年5月3日の憲法集会でこのコント集団の一員が小泉首相に扮して皮肉たっぷりの挨拶をしたっけ)。そのペテン師にまんまと引っ掛かった国民は首相就任時には80%の支持率を、その後もいい加減だまされたと気付きそうなものを、いまだに首相に担ぎ上げたまま、つまり芯から懲りていないというお粗末。なんか、まだまだ甘い国民です。









手紙っていいかも!


 目下、仕事場移転のための整理中で、溜め込んだ手紙類をあらためて取り出して見ています。この十数年いろいろな方からたくさんのお手紙をいただいていたと言う事実に驚きつつ、思わず「手紙って良いな!」と思いました。

 今ではメール全盛で、それはそれで、瞬時に情報を共有できる便利さは何ものにも変えがたいし、気軽に送受信できる実に便利な道具ではありますが、でも、ちょっと味わいにはかける・・・と思う。

 手紙って、まったく見ず知らずの方でも、その文字や文体のみならず、筆圧やら便せんや封筒、切手の選び方などからお人柄をおぼろげながらも読みとることができる。わー!几帳面なタイプだなぁとか、達筆だ!とか、可愛い便せんが好きなんだなぁ・・・、さらに筆跡からもしかしてせっかちさん??とか多少読み取れて、どこかでまったくの見知らぬ人と言う気がしません。たくさんの情報が伝わって来るのが手紙です。

 それにひきかえ、メールだとやはりどこか事務的、他人行儀な印象で、人柄までなかなか伝わってこないみたいです。だから、絵文字などでいくぶん人間味を出す試みが盛んなのかもしれませんね。でも、絵文字が苦手なものはどうすりゃいいの?って思いつつ、ぶっきらぼうなメールを送っていることを反省したのでした。そして、たまには手紙を書こう・・・って、別に郵政相の回し者じゃないですヨ。









なんだ?これ2




 これは「とし」が利根川下流でとってきた大小フナを干しているところです。
いったん軽く焼いてから干します。このあと、佃煮風に煮る予定。さて上手く出来上がるでしょうか?









なんだ?これ




 これは「とし」がせっせと使ったサインペン類の完全使用済みの山です。
今どき、手書きで使い切ったということで、ちょっと御紹介してみました。









子育てはなぜむずかしくなったのだろう?


 今、子どもがおかしい、いえ、それよりも親に問題あり、なんのなんの、家族のありようがもはや崩壊している・・・など、何か事件のたびに議論される。しかし、ほとぼりがさめると、いつの間にかうやむやになる、その繰り返しでは問題解決にはほど遠い。掲示板のカキコミに触発されて、ちょっと考えてみましたが、なにしろ、問題はデカい、頭は悪いで、どうにも手に負えない感じです。

 今の親に問題があると言うのはいかにもの指摘。子どもを叱れない、子どもに過度の期待をかける一方で、ないがしろにするなど、言いつのればキリがないかも知れないが、しかし、いったい、いつからそんなことになったのか?その原因はどこにあるのだろうか?と・・・・あらためて疑問を感じるなぁ。 

 確かに親自体が親になり得ていない、成長していないから、子どもを叱れない、甘やかすばかりだ、と言えるのかも知れない。まさに子どもに翻弄されている観なきにしもあらずだったりもする(つまりは、私も反省しきりとなる次第)。しかし、昔の親は本当に見識があったのか?だとすれば、それはいつから変わったのだろうかと考える時、でも昔の親と今の親と、どれほどの違いがある?と思ったりもする。もちろん様々な要因が複雑にからみ合って簡単な比較などできもしないだろうが、もし大きな違いがあるとしたら、それは親子を取り巻く環境の違いも大きいのではないか・・・と思ってしまうのはおかしいのだろうか?

   昔は・・というと漠然とし過ぎるが、戦前はもちろんだが、戦後も昭和30年代はまだ、貧しい時代で、家庭も電化されていないから、家事だけでもずいぶんと時間と労力を要した。つまり、親は忙しい、子どもも多いと、とてもひとりひとりのささいなことにまで目が届かない、それが良かったのか・・・と思ってしまう。しかも、まだ何と言ってものんびりとした時代で、子どもが外で遊んでいても危なくない。車もほとんど走っていないから、外にほうり出しておいても現在のように心配ではなかった。何とはなしに近所の目も行き届いていたかもしれない。親がひとりでしゃかりきになって子育てに翻弄されなくても良かったということだったら、ちょっとうらやましくなったりする。安易な比較は出来ないものの、今より子育てを大変とは思っていなかったのではないだろうか?どこかで「親の背中を見て育つ」と信じることができたのだから。

 豊かな社会になって、1日中あくせく働き通しという生活から、ゆとりのある暮らしになって、幸せとなるはずなのに、人間って天の邪鬼?家事から解放されて子育てにしっかり向き合えるとなると、見なくてもいいところまで見えたり、気になったり、過干渉、過保護となってしまうのだろうか?その果てにうとましくなったりもするのだろうか?と、あれこれ思いつつ、だから昔が良かったって言うのも違う気がするが・・・・。

 いまのこの状況の中で、考えていくしかないが、子どもにとって、群れて思いきり外で(できれば自然の中で)遊ぶことは成長に欠かせないとは思う。そのための環境を確保していく努力はきっとますます(困難ではあるが)大人に求められているのではないだろうか?

☆立続けに2件、両親を殺害する事件が発生した。子どもはある時期、親を乗り越えるために頭の中で親殺しをするともいう。でも実際に手をくだすのはよくよくのことのはずだと思っていたのですが、この事件を例外的としていいのだろうか? もう20年以上前になったでしょうか?金属バットで両親を殺害する事件が発生した時、まだ息子は保育園くらいの幼さだったのですが、将来そうなったらどうする?と知り合いに聞かれ、「殺されるのが私たちで、他人でなかったことを喜ぶしかないでしょう」と答えた記憶がありますが、親にとっても子にとっても、なんとも痛ましい事件としか言い様がありません。









  気が向いたら・・・



木立にもようやく秋の気配々

 日々、ニュースが飛び交い、わずか数日前のニュースがあっけなく色褪せていく。その事件にかかわった方には容易に忘れることも色褪せることもないはずのに、部外者は目まぐるしい時の動きに目をくらまされてしまうようです。本当はどれも忘れてははいけないものなに・・・・。
目下のところ、新潟の大地震の発生とその後の避難生活、そして度重なる余震のニュースが中心となって、それ以前の台風被害について、熊の出没について、イラクでの戦争について、ほとんど関心は払われない。紙面もTVニュースの時間も限られているということで、優先順位がおのずとつけられるのでしょうが、でもどれも当事者には無視されてはたまらない大問題。

 イラクで人質となり、あっという間に無惨にも殺害された香田さんのことは、あまりにも辛いからと目をそむけたくなるせいか、ほとんど無視に近い状況です。無謀な若者は自己責任で惨殺されても仕方ないでしょ、と端から交渉を拒絶するかのような発言をした首相を批判する声も少なく、いわばよってたかって見殺しにした観があると思うのですが、皆様はこの件について、どうお考えでしょうか?
一方で、冒険をしない若者を「若さがない」と言い、返す刀で「無謀だ」というような大人ではありたくない、と思い、何よりも若い命が余りにもあっけなく失われる昨今の状況にいたたまれない思いです。
もし、今回の香田さんの事件に関心がある方は、以下のサイトにいろいろな方の意見が書き込まれていますので、ご覧下さい(このサイトの管理者は東大の先生方のようで、4月にイラクで拘束された3人の人質の問題に対する政府の対応への疑問から始まりました)。もちろん、カキコミはどなたでも出来ますので、よかったらぜひど〜ぞ。

香田さんを、そして日本を救うために









なんだかなぁ・・・


 ちょっとぼやきたくなるのは、まあささいなことなんですが、メールアドレスを変更して2ヶ月以上たつと、いったいどこから情報入手するのか、迷惑メールが毎朝いくつも届くようになりました。それが以前は来なかった類いのメールです。アドレスを「自然通信」とした結果、男性だと思うのでしょうか?女性を紹介するだの交際相手求むだとかいった類いのメールが性懲りもなくやって来るって、つい「どうよ?」と思ってしまうのですが・・・。まあ、即削除でおわることですし、うちのPCはMACなので、それでも、まだ少ないらしい。つい愚痴ったら「ウィルスや悪質メールはメールシステムに繁茂していますが、自然界の雑菌と同じようなものと割りきり対処すれば良いものと思っています。」という慰め?の言葉をいただいたりしていました が、まだそこまですっきりと割り切れず、「なんだかぁ・・・」と思ってしまうということは、まだまだ修業 (なんの?)が足りないのかしら・・・・?










笑いは大事だ


 5日、試写会にめでたく当って見た「笑の大学」は96年に上演された舞台劇の映画化。この舞台は「読売演劇大賞」作品賞を受賞した傑作で、三谷幸喜さんの代表作のひとつとなっています。昭和15年、日中戦争が激化しつつある時期に、「一度も笑ったことのない検閲官・向坂」と「笑いに命をかける劇団の座付き作家・椿一」の7日間の攻防を描いた二人芝居だけに、映画化は不可能とされていた。しかし、この作品を何とかして映画化したいと願うプロデューサーらが時間をかけて三谷さんを説得し、ついに今回実現させたといわれています。

 喜劇なんぞを上演させたくない検閲官はあらゆる難癖をつけて、書き直しを命じる。それを拒否すれば上演はできないとあって、懸命に意に従って書き直していくと、あら不思議、どんどん面白い芝居になっていくというストーリーです。

 この作品はコメディーとされていますが、その根底に「笑いとは何か」「ひとは笑いを必要としているのか」、あるいは「検閲に対する異議申し立て」といったテーマが、検閲官と座付き作家のちぐはぐなやりとりの中から巧みに浮かび上がってくる仕掛け。戦時下という状況で笑いなど必要ないと笑いをまったく否定する検閲官に対し、思わず「どんなときにも笑いなしには生きられない」と見ている私は叫びたくなってしまいました。「笑いのない人生」なんてなんと味気ないものでしょう。屈託なく笑えるのは幸せそのものですが、どんな困難な状況をも打ち破るのもまた笑いの力であるような気がしています。

 人に欠かせないものは数多くありますが、その中で笑いというか、ユーモアは、かなりの重要度だと常々思っているわけで、そのわりに、無粋な文章を書いているではないか?と突っ込まれそうですが、そう、笑いは高度のテクニックを要するもの、とうてい一筋縄ではいかないんですよ、残念ながら・・・。まあ、笑いにもピンからキリまであって、駄洒落やひとを笑いものにしたりするそういう笑いは低俗だと思っています。もうちょっと皮肉を利かせたような、あるいは人生の機微を感じさせる笑いこそ上等、とこれでも一応は目指してはいるんですがねぇ・・・。 笑いにも国民性がきっとあるのでしょう。イギリス人のジョークとか笑いは決して大笑いするようなものではなく、くすりと笑える感じで、丸谷才一氏はその流れを汲む皮肉なユーモアが上手いと常々感心しているのです(密かな憧れ)。

 笑いを検閲するという設定は、実は検閲を批判する格好の組み合わせかもしれません。まさに対極的なものともいえるでしょう。しかし、そんな愚かな行為が実際に過去にあり、また状況次第でこれからも起こり得ることも、この映画は訴えているようでした。

 映画「笑の大学」では、駄洒落もあり、素っ頓狂な受けねらいの笑いもあるのですが、いつしか検閲官と座付き作家の間にほのかな友情も芽生え、そして泣かせるラストへと展開していきます。ほとんど検閲室で対峙する二人だけの芝居なのに、まったく飽きさせないのは、脚本と演出と役者の三拍子揃ったからでしょう。

 さらに、浅草の町並みや無数のポスターの絵柄まで戦前の雰囲気を漂わせる神経の行き届いた仕事振りが作品に厚みを出していました。というわけで、この映画なかなかに面白かった。ちなみに、この座付き作家のモデルは、エノケン(今年は計らずも生誕百年だそうです)の座付き作家だった菊谷栄氏で、三谷幸喜さんが大変尊敬している作家なのだそうです。









お楽しみはこれからだ?


 人は誰でも否応なしに年をとるものだから、年を重ねることが喜びでありたいが、実際はあまり嬉しくない。若い頃にはなんなくできたことが日に日に困難になる。それも何も特別にむずかしいことではないのに、物覚えが悪くなり、すぐ疲れるようになり、新しいことにはなかなか慣れ親しめない。昔のように、経験がものを言うこともない時代だし(とはいえ、誇れるほどの経験もないが)。さらに、容姿も衰え、どんな「うぬぼれ鏡」で見てもさっぱり、うぬぼれようもない。

 気分は若い頃とさして変わらないつもりなのに、外見と中身がどんどん乖離する気がして、意図したわけではないがちょっと詐欺師じゃなかい?これは・・・。年を重ねたからといって、徳や知恵がおのずと備わるわけでもなし、いえ、それどころか、相変わらずのミーハー気分はそのままに、物忘れが深まるだけです、私の場合は。

 というわけで、まったくいいことなし・・・のようですが、ひとつだけ?これから楽しみにしているのが、映画のシニア割引。これは60歳になると1000円で映画を見られるようになるという、なんとも嬉しい割引です。実は外見的には白髪頭でどう見ても60歳を越えているように見えるのではないかと思うのですが、実年齢がまだ足りないので、いつもシニア割引の誘惑を感じつつ一般料金を払っている。シニア割引と言ってみたとして、「ハイ」とチケットが出てきたら、「老けている」ことがはっきりと証明されるわけで、それもやはりショック?だろうが(でもないかな?)、万一、免許証の提示を求められてバレたら、なおいっそう恥ずかしい。というわけで、いましばらく、待つしかなさそうです。まあ、ひとつくらい年をとる楽しみがあってもいいのではないでしょうか。ついでに、芝居のチケットにもシニア割引ができるといいのになぁ・・・(新国立劇場では高齢者割り引き/65歳以上があるらしいけれど・・・)。でも、団塊世代がシニアになったら、割引撤回になる、なんてことも危惧されたりして・・・??トホホ。









負け犬VS.負け猫


 04年の流行語大賞の候補間違いなしでしょう。「負け犬」・・・・。誤用もされているようでもありますが、発端となった30代未婚、子どもなしの女性の生き方に皮肉と愛情を込めて描いた「負け犬の遠ぼえ」で酒井順子さんは婦人公論文芸賞を受賞しています。

 「負け犬」はあるけれど、「負け猫」はない。言葉としてはもちろん、イメージさえできないのは、犬と猫の違いを象徴しているようです。犬にしろ、猫にしろ、勝ち負けはエサの取り合いだったり、あるいは命をつなぐための相手を得る争いだったりすることに代わりはないはず。でも、犬は負けるとすごすごとしっぽを丸めて引き上げ、そのくせ、安全な距離に来て虚勢をはったりしそう。猫だって似たり寄ったりのはずだけれど、たとえ負けても「どこ吹く風」といった感じで、飄々としている感じがしないでもない。哀れっぽくないところが「負け猫」のない由縁でしょうか?

 その昔、実家の庭を威風堂々と歩く野良猫がいました。当時、話題を集めていた黒沢作品「椿三十郎」から名前をもらって「三十郎」と勝手に名付けていました。立派な野良猫だから、まったくひとに懐くこともなく、それでもそっとエサなど置いておくとそれはちゃっかり食べていた。おそらく喧嘩も強く、雌猫にもモテモテだったでしょう・・・。そんな彼も、ゆっくりと年をとり、かつてのように雌猫争奪戦で連戦連勝とは行かず、しだいに傷を負ってしまうようになり、その傷の程度もどんどん深くなっていった。つまりは「負け猫」となり、でも老い耄れながらもどこか毅然としていたように思いました。内心、何をどう思っていたのか、知る由もないけれど、逆境にもじっと耐え、女々しくないところはぜひまねたいと思ったものでした。私はできれば「負け犬」よりは「負け猫」になりたい猫派です。









愚痴の行き着く先は・・・・


  ホームページを開設してまもなく丸2年を経ようとしている。ということは、あれこれと勝手な繰言をやたらと書き連ねてきたということであり、時に「はて、この話題、以前にも書いたことあるのでは?」とあたふたすることがある。まあ、繰言であり、雑談であるからと、端から似たり寄ったりの話へのエクスキューズを先取りしたタイトルってわけなんですが・・・。

 さて、著名な作家も亡くなって数年も経つと一般には記憶も薄れ、書店の棚からもその作品が消えていくのは世の習いですが、好きな作家への思い入れはそんなに簡単に薄れるものではない。辻邦生さん、好きな作家です。日本人なのにその作品は、フランス文学の、フランス文化の影響を受けて、情緒に流されるのではなく、石造りの建物のようにしっかりと構築された物語世界をつくりあげている。そこには訴えたいテーマがくっきりとあり、しかも、変にべとつかない透明感のある空気に包まれているのです。

 初期の「城」「回廊にて」、さらに「夏の砦」から晩年の作まで好きな作品は、長編を中心に、短編、さらに掌編までたくさんあります。

 その中で、ことさらな日本批判ではないけれど、とても印象に残っている一節が「時の扉」という新聞小説にあります。かつて誠実な恋人を裏切って死に至らしめたことから北海道の果ての地でひっそりと教員生活を送っている主人公の矢口忍が、友人の考古学者の勧めでシリア砂漠の発掘現場におもむき、そこでフランス隊に参加して考古学を研究する日本女性・鬼塚しのぶと知り合うのですが、彼女はこう言うのです。「矢口さんは日本人男性には珍しく人生のぎりぎりのところで逃げない人だ」と。日本人男性には真面目な方も、ぬけめのない方も、ユーモアのある方ももちろんいるけれど、皆最後のところで人生を突き詰めて深く考えることから逃げている。人生の本質を見つめることをしないと・・・。翻ってフランスの男性は、人生のぎりぎりの場所で真剣だと・・・・。

 これは一見、フランス崇拝、西洋崇拝に過ぎないじゃないか?といわれそうですが、日本の政治家の日頃の言動、単なる対米追随外交でしかないありさまと、たとえばイラク開戦前のフランス外相の戦争反対演説を比べるだけでも、納得するしかないのではないでしょうか?さらに言えば、夢物語のようなヨーロッパ共同体を、時間はかかったし、完全なものではないかもしれないけれど、それでも紆余曲折、試行錯誤を繰り返しながらも、共通通貨を持つに至るまで粘り強く実現に努力し、これからも知恵をしぼっていく・・・となると、もうその違いはあまりに大きいといわざるを得ません(同じ時間があったのだから、日本でもアジア共同体を構想し、努力することは不可能ではなかったはず)。もちろん、政治家に限ることではなく、つまりそのような政治家を持つかどうかは国民の意識の違いであって、やはり、ひとりひとりが「深く物事を見つめ、人生のぎりぎりのところで逃げずに、真剣に考える」ことに由来するのだとうらやましく思ってしまうのです。

 結局、うだうだと愚痴となり、その行き着く先も毎度同じとなってしまう・・・愚痴のスパイラル状態だと、あらためて気付きましたが、御容赦のほどを。









健康が一番


 猛暑、酷暑、表現のしようもない暑さの続く日々ではありますが、我が家では一応夏バテをすることも、食欲不振になることもなく、クーラーなし、扇風機のみの暮らしで家族がなんとか生き延びています。

 第11回江戸川シンポジウムの当日も朝から暑い。じりじりと太陽が照りつける午前11時、お弁当などの買出しに歩きつつ、このヘビーな状況にもかかわらず、とりあえず苦にならずに動けている私にいまさらながらに「丈夫でよかった」と思いました。元気が当たり前となっているので、正直、体をいたわるなんてこともなく、それでも毎朝「よ〜し!」と早起きし、何をするにもふつうに体が動く状態。朝起きられない、動けないほどしんどいということは十数年前に夏風邪をひいた時のことしか思い浮かばないくらいです(馬鹿は風邪もひかないって証明されました)。しかし、これって、けっこうすごいこと、ありがたいことではないかと・・・、遅ればせながら気づいたのでした。しかし、そろそろ年も年だし、この状態がいつまで保てることやら・・・。できるだけキープしたいので、あまり無茶せず、暴飲暴食せず、とは思ってはいます(実行はどうですか?)。

 それにしても、上には上があるもので、「とし」はシンポジウム終了後の二次会、三次会で大盛り上がりして、酔っ払って12時過ぎに帰宅したにもかかわらず、翌朝、5時半には勝浦方面に向けて出かけたのでした。がんばった収穫はきれいな貴重種のイトトンボ・・・・(生息場所はひ・み・つ!だそう)。このパワーには沖縄の自然に関する緊急集会をパスした私にはまさに「脱帽」ものです。









7.4 VOTE FOR PEACE 集会に参加





 渋谷の宮下公園に集まって、午後2時から集会スタート。主催者あいさつの後、FLEX LIFEというミュージシャンの演奏、そして石坂啓さんの訴え。「この国は曲り角をまがってしまった。これを元に戻すのはたいへんなこと。『子どもたちに国に命を捧げる教育をする』という国でだれが子どもを産みたいと思いますか?少子化は当然のなりゆきです。『変人』として登場した小泉首相はいまや『狂人』です」とかなり刺激的な語りでした。さらにイラクで取材するジャーナリスト・柴さんからは「サマワの自衛隊はただ既成事実をつくるためにだけ滞在している。給水活動もほとんど現在では行えない状況。それを伝える報道機関がいない」とのメッセージが届いた。そして韓国の野党議員からは韓国人人質の殺害のために訪日できなかったと連帯のあいさつがありました。





 集会後、日曜日の大混雑の渋谷周辺をパレード。若い人たちに選挙へ行こうとうったえたけれど、正直しらけ切った彼らにはほとんど何の効果もなかったような・・・・??しらけの結果がどういう世の中をつくりだすのか、自ら体験しないとなにも分からないのだろうか?とほとんど絶望しそうな印象を、今度の選挙でくつがえしてもらえる?










時代劇で憂さ晴らし?/7月8日

 5月、6月と話題の芝居は時代劇づいていた。司馬遼太郎原作の「燃えよ剣」(残念ながら未見)に始まり、「髑髏城の7人」に「浪人街」、いずれもたいへんな人気だった。「髑髏城の7人」と「浪人街」どちらもチャンバラ、大立ち回りがもっぱら話題の的。確かに舞台上を所狭しと駆け回り、切って切って切りまくるのはに迫力満点であり、爽快感もあるなぁと実感したけれど。まるでスポーツ観戦に似た快感・・・。

 その中でも、「浪人街」はとりわけ前半のストーリーは チャンバラに至るための露払いとでも言いたげなほどいわば軽いものでした(よいか悪いか判断は好みによりそうですが)。時代劇って、現実にはあり得にくい勧善懲悪が基本で、巨大な悪に苦しめられ、のた打ち回り、そのあまりの横暴についに堪忍袋の緒が切れて・・・となるお定まりの展開が安心して見られるし、期待を裏切らない善が勝利する結末も憂さ晴らしにぴったりということでしょうか。「浪人街」について言えば、その肝心の悪が巨悪というにはあまりに小粒な気がして、物足りなさを感じましたが、小粒の悪にしてやられるっていうのは、実際にはさらに悔しくも腹立たしいことだったりしますよね(リアルタイムで事例多々あり)。

 先日は「浪人街」で一番人気だった中村獅童の「丹下左膳」がTVであり、映画ではその左膳を豊川悦司が演じているというし、 さらに舞台ではこの秋に市川染五郎バージョンの「髑髏城の7人」があり、染五郎が舞台で演じた「阿修羅城の瞳」の映画化もあるという。

 それにしても、時代劇が見直されるってことは、現実があまりに理不尽だったり、閉塞感に窒息しそうになっていたりすることの裏返しでもあるのでしょうか?

追記:このところのニュースでこれぞ悪役にぴったりの人物発見。そう、あの面構えと言動はもう、天下一品の悪役ではないかと、某軍団のオーナー氏を見てつくづくと思ったのでした。いかにオーナーとは言え、プロ野球は選手とファンなしに成立しないはずではないのか?その上、最近の野球人気の低迷は、ドラフトだとかFAだとか、強力な戦力をひたすらかき集めたその結果ではないかと素人にさえ看破されているのですぞ!オーナー氏の封建的言動に堪え切れずたちあがる選手諸君が、思いっきり大暴れしてくれたら・・・、野球ファンならずとも拍手喝采かと、思ったりしますが、どうなるのでしょうか?





少子化問題は起こるべくして起こった/6月30日

 年金問題絡みで法案成立後に発表された生涯出生率が1・29というさらに深刻化する少子化問題(いわゆる後出しジャンケンという)。東京都では女性が生涯に生む子どもの数は1人を切ったともいうが、これは、いま、子どもを産みたいとも思えず、産める環境にもないということを正直に反映しているだけです。一見豊かそうにも見えるかもしれない、でも子どもを育てるのは経済的にも、心理的にもますますたいへんになってきていると思う。均質化、画一化が強まる息苦しい社会、闇雲に押し付けられる自己責任、自己負担、弱肉強食化する社会だけでも問題だけれど、子育てに協力する体制が地域にも社会にもない、子どもをのびのび放牧させられる自然もない、経済的にも子育てはたいへんだし、そして何かあるとその責任は家族に、特に母親に押し付けられる、それでも産もうという勇気がないと非難されてはたまりません。もっとのんびりと心温かな社会を創らない限り、少子化は続くと思ったほうがいい。

 当然、母親も仕事を持つと言う前提で社会で子育てに協力する体制が求められますが、それは保育園、学童保育の充実でもあり、育児休暇を当然の権利として取りやすくすることでもあるけれど、たとえば病気になった子ども(集団生活では本当にいろいろな伝染病をもらうものです)も安心して面倒見てもらえる施設だってほしい(仕事を休めるならそれに越したことはないけれど、緊急事態ってこともある)。大家族なら誰か彼か目をかけてもくれただろうけれど、現代では望むべくもないから、それなりにしっかりと体制を作る必要がある。なによりも女性が仕事をもつ、もたないにかかわらず子育てを母親だけの仕事にしないことが大切です。都会のマンションの壁の中で親子二人きりの生活はやはり不自然だし、問題発生の温床になると思ったほうがいい。外でのびのび遊べるためには車の入らないエリアを作る事だって必要。そして、瑣末なことで子どもを比較しないおおらかに見つめる空気を学校にも社会にも作ることは大切です。逆上がりができなくてもいい、その一方で興味をもつものには深くかかわれるよう手助けできるといいなぁと思います。なによりも、社会が子どもを経済的ターゲットとしない、子どもを金儲けの格好の対象としないことが重要(今はあの手この手で子どもでもうけようとしているあさましい現実がある)。子どもが子どもとして肉体的にも精神的にもゆっくりと成長できる環境を、意識的に実現していこうと取り組むしかないとも思うのですが・・・・。 





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